10.長い旅を終えて
長い旅を終えて
昨年のヨーロッパに続いて北米、東南アジア、インド、トルコと北半球を一周し、日本国内も行きたいところはすべて行くことができ、欲しいものも一通り手に入れた。
これで私の夢はすべて叶えることができた。
小説や映画であれば、ハッピーエンドで話は終わるだろう。
しかし「現実」は死ぬまで続く。
自分史はまだ半分近くも白紙のまま残されている。
「夢をすべて叶えた今、これからどう生きればいいのだろう?
他人の人生を生きるのか?それとも、自分だけの人生を生きるのか?」
ここまで来れば納得できるまで考えてみようと思い、図書館にこもって本の森を渉猟した。
本は「人」の結晶体だ。
本棚にずらりと並んだ人生の数々が、誰かに語るのを静かに待っている。
ページをめくるたび私に雄弁に語りかけ、
時間と空間を超えてたくさんの人たちと対話した。
いろいろな本を読みながら改めて自分の人生を振り返ってみると、私は日本の社会問題を一通り経験していることに気がついた。
バブル時代の少年期、不登校、受験戦争、ひきこもり・ニート、バブル崩壊、就職氷河期、非正規雇用、ブラック企業…。
さらに今後は、親と自分自身の介護、年金問題、社会保障問題、格差問題、移民問題など過酷な試練が約束されている。
実は、過去にも私たちのような時代の移り変わりによる犠牲者がいて、食糧難による人口調整を目的としたハワイ・カリフォルニア州・中南米への移民政策、敗戦引き上げ時に敵兵の囮(おとり)として満州に置き去りにされた中国残留孤児などの例がある。
ただ従来の問題と大きく異なる点は、政治的な問題を「自己責任論」によって【個人の責任】にすり替えられたことだ。
新卒の採用枠を砂時計のように狭めたことで非正規雇用労働者が増え、その結果貧困率と未婚率が上昇して少子化が促進され、さらに人口減少を理由に外国人労働者を増やしてさらに圧力をかけられている。
これを例えて言うならば、氷河期世代は一生「上がり」のないババ抜きをさせられているようなものだ。
チャンスは最初にカードが配られた時(新卒カード)の一回キリで、あとはゲームが進むほどジョーカー(ブラック企業)が増える。
ジョーカーを引けば引くほど「上がり」が難しくなっていく(転職歴の増加)。
そしてカードを引くのを辞めた状態が「ひきこもり」だ。
そういう意味で「ひきこもり」は氷河期世代の象徴的な存在だと思う。
こうした犠牲によって終身雇用制度を守りきった人たちは今は年金に関心を奪われ、最近では大学新卒者の就職率が98%まで上昇しているにも関わらず、氷河期世代は依然苦しいままであり、家庭を築けても今度は「子供の貧困」という課題に直面している。
つまり氷河期世代は、
【戦後日本の矛盾を背負わされた世代】と言える。
子供たちは親も国も選べない。
だからこそ【子供たちが幸せになれる社会】を用意する責任が大人にはあると思う。
戦後のある時期から【次の世代に対する責任感】が希薄になったように思う。
今の日本に決定的に欠けている点がこの【責任感】であり、私が海外に行くたびに感じる違和感はすべてこの点に集約されるように思う。
しかし「戦争を知る親たち」までは【次の世代に対する責任感】をしっかり意識されていたと思う。
特に大正生まれの方々の多くは戦争で命を落とされ、敗戦後は日本の復興に主力となって尽力された。
戦争という負の遺産を子供たちに引き継がせずに自分の代で精算しようとしたからこそ、戦後わずか20年ほどで世界第2位の経済大国になるという「奇跡の復興」が実現できたのではないだろうか。
「奇跡の復興」と「失われた20年」は同じ20年間であるが、その結果の示す意味は単に経済的な意味だけではないと思う。
プラザ合意後瞬く間に外国資本家に乗っ取られ、気がつけば「先祖の遺産」と「子供の未来」を奪われ、長年受け継がれてきた日本人の知恵と文化が衰退し、そして今や自殺大国という【精神的な焼け野原】に立たされている。
これからの時代をどう生きるべきか?
人間は100年足らずの命しかないことを考えると、一人の人間でできることは限られている。
そのため、自分が生きている時代の中で【次世代に継承するに価するもの】を見つけ出し、それを形にしていくことが【今の時代を生きる意味】ではないだろうか。
「あなたは次の世代に何を残しましたか?」
と問われて胸を張って答えられるように生きたい。
そう考えれば、常に時代に翻弄されてきた「失われた世代」ゆえに【戦後の日本が失ったもの】の大切さを実感できる立場として、次の世代に何かを残す役割があるように思う。
帰国するといつも「日本人の元気のなさ」が目立つ。
終わることのないレースを延々と走らされて、皆疲れ切っているように見える。
ヨーロッパで感じたような心にゆとりのある生活は日本ではできないのだろうか。
いや、そんなはずはない。
ただ、日本はお金重視の「経済成長」を追求する【発展途上国マインド】から脱却しておらず、QOL(生活の質)重視の「人間成長」を追求する【先進国マインド】にシフトするタイミングを逃してしまったのだと思う。
他者を出し抜いて、自分だけが得をする「奪って得る」考え方は自分一人しか得をしないが、他者を尊重して自分も得をする「与えて得る」考え方は相手と自分の2倍得をする。
奪うよりも、与える余裕があってこその豊かさだと思う。
今の日本において、社会的な居場所を奪われた「ひきこもり」という現象は起こるべくして起きた社会現象のように思う。
生命活動を強制終了するのが「自殺」ならば、
社会活動を強制終了するのが「ひきこもり」だ。
「ひきこもり」までいかなくても少し歩みを止めて、
【自分の生き方】についてじっくり考えたい人は多いのではないだろうか。
人は誰しも高いエネルギーを内に秘めていて、それを昇華する手段を求めていると思う。
エネルギーを昇華できる人はイキイキと生活し、昇華できない人はストレスを感じて様々な問題として発現する。
それゆえエネルギーを昇華する手段としての【仕事】は人生の質を大きく左右する。
ヒポクラテスが「健康になる条件」として「仕事を与える」ことを第一条項として掲げていたことは、とても意義深い。
他者に必要とされ認められ、自分の存在価値を高める【仕事】は、【生きる喜び】につながっていくのだと思う。
ライフスタイルの多様化とともに、仕事の多様化も進めばもっと生きやすくなるのではないだろうか。
仕事が多様に生まれれば、それだけ多様な商品やサービスが生まれ、自分を含めた社会全体の利益にもなると思う。
「次の世代に何が残せるか?」
どの時代もその時代特有の問題を抱えているが、人類は新しい問題に直面し、新しい発見をし、新しい方法を生み出して進歩してきた。
そういう意味で、社会問題の中にはすでに新時代の種が含まれていると思う。
その種を見つけ出し、発芽させ育てていくことがこの時代を生きる私たちに与えられた役割だと思う。
自分の世界観を変えれば世界の見方が変わる。
誰かの世界観を変えれば世界の見方が変わる。
これを繰り返していけば世界そのものが変わる。
改めて自分の半生を振り返ってみると良いことも悪いこともいろいろあったが、そのすべての経験が今の自分を構成する必要なピースになっている。
旅で出会った人たち、仕事仲間、幼なじみの友達、学校の先生、転校先の女の子…、
すべての人に感謝している。
そして特別な愛情でここまで見守ってくれた父と母には心から感謝している。
経験という鋤(すき)で心の土を耕しながら感謝の種をまき、そこから得られた果実を皆で楽しめたら最高の恩返しになるだろう。
どんなに分厚い雲に覆われていても、その上には太陽が燦然と輝いている。
どんなに厳しい時代でも、私は輝き続ける太陽になりたい。
そしてあまねく光を照らし、暗い闇の底まで光を差し込みたい。
かつての私のように、
社会のどん底で苦しんでいる人たちに光を届けたい。
人は誰しも遺伝子の船に乗って時間を旅する旅人だ。
旅は道連れ、世は情け。
一緒に人生の旅を楽しめたらこれほど楽しいことはない。
最後に、私が好きなネイティヴ・アメリカンの言葉で締めくくりたいと思う。
あなたが生まれたとき、あなたは泣いて、周りの人は笑っていたでしょう。
だからあなたが死ぬ時は、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい。
9.インド、トルコ、タイ、沖縄一人旅
アメリカから帰国後、次はインド(コルカタ、ブッダガヤ、バラナシ、ニューデリー)→トルコ(イスタンブール、カッパドキア)→タイ(バンコク)→沖縄(宮古島、石垣島)の順に旅に出かけた。
インド
最初に降り立ったインドの都市コルカタ(旧カルカッタ)は、イギリス領インド帝国時代の首都というだけあって、ヨーロッパ調の建物が立ち並んでいた。
40度以上のうだるような熱気の中、人や車、バイク、オートリキシャ、牛、犬などが忙しなく行き交っていた。
路地裏では肋骨まで浮き出るほど痩せこけた牛や犬たちがゴミを漁り、路肩につながるヤギの群れは毎朝カーリー寺院で首をはねられるのを不安そうな表情で待ち構えていた。
ショッキングな光景、騒音、排気ガス、熱気、強烈な匂い…、まるでパンドラの箱を開けたような世界だった。
宿泊先の宿では、世界一周中の若者や国境を越えるバスがゲリラに襲撃されて命からがら逃げてきたお笑い芸人などいろんな人がいた。
インドは噂に違わずカオスな世界だった。
薄暗いコルカタ駅構内には山のような荷物を背負う人や、床に雑魚寝しながら電車を待つ人たちで雑然としていた。
列車が到着して、予約していたAC(エアコン)付きの寝台列車に乗り込み、自分の席を見つけるとインド人家族がくつろいでいた。
これは海外ではよくあることなので、チケットを見せて注意すると素直に去って行った。
何の合図もなく列車が出発し、スマホで何気なく地図を見ると一瞬血の気が引いた。
GPSが作動していない…。
当然Wi-Fiも使えないので、現在地がまったくわからない。
しかもインドの列車は停車駅の発着のアナウンスがないため、駅名をよく見ておかないと乗り過ごしてしまうのだが、小さい看板にヒンディー語で書かれているため私には全く理解できなかった。
とりあえず朝4時に起き、トイレに行く人を捕まえては「次の駅はブッダガヤですか?」と訊き続けることにした。
「そうだ」という人と「ちがう」という人など意見が分かれたが、多数決で次の駅で降りた。
なんとか正解だったのでホッと胸をなで下ろした。
駅はまだ早朝だったので、ホームで寝ている人が多かった。
この時間帯で外を出歩くのは非常に危険なため、駅の中でしばらく時間を潰すことにした。
駅のホームは床の上で雑魚寝をする人たちで雑然としていて、線路に目をやると、女性が水を入れて売るためのペットボトルを黙々と拾っていた。
そのためインドでミネラルウォーターを買う時はキャップの閉開を確認しないと、腹痛と高熱にうなされることになる。
ようやく外が明るくなった頃、オートリキシャに乗って街に向かった。
この辺りはビハール州と呼ばれるインドで最も貧しい地域だ。
土の上で寝る子供、壁のない家、屋外のかまどで料理する人など都会のスラムとは違った光景を見ると、資本主義の影の部分をまざまざと見せつけられているような気がした。
仏教徒の聖地であるブッダガヤのお寺めぐりを終えて、ホテルの近くのレストランに入った。
店のオーナーは日本と関わりの深い方で、首相や女優などの著名人がブッダガヤを訪れた時は案内役を務めていると話していた。
彼は非常に博識で、インドの歴史についていろいろと教えてくれて有意義な時間を過ごすことができた。
次にガンジス川で有名なバラナシに向かった。
バラナシ駅に降りると、再び人々の喧騒と熱気が充満する世界に帰ってきた。
気温45度の熱気はまるで飴を溶かしたように重く、ひっきりなしに鳴り響くクラクションは鼓膜をヤスリで擦られるようだった。
宿に到着すると、宿泊者たちがロビーに集まって雑談をしている中にコルカタで一緒に過ごしたT氏の姿を見つけた。
その後の情報交換をし、お互いの無事を喜んだ。
宿泊者の中に肌が黒くひときわ背の高い青年がいて話しかけると、奇遇にも同郷の人だったので意気投合し、バラナシに滞在中は彼と行動を共にした。
ガンジス川にはガートという死体焼き場があり、終日絶えることなく死体を燃やし続ける炎は3,000年間途絶えることなく燃え続けていると言われている。
夜にガートを訪れると炎が暗闇を赤い舌で舐める様子がハッキリと見えて、妖しくも神聖な雰囲気が漂っていた。
翌朝、宿が主催する「ガンジス川で朝日を見るツアー」に参加した。
早朝のガンジス川は、昼間のガンジス川と違って鏡のように美しかった。
母親が赤ん坊と共に沐浴する向こう側では、
少年たちが勢いよく川に飛び込んでガラスの水しぶきを上げ、
その隣では老婆が洗濯をしていた。
川で泳ぐ少年たちは私たちに笑顔で手を振り、私たちも笑顔でそれに応じた。
なんて素晴らしい光景だろう。
ガートから流れてくる遺灰は「かつての彼らの姿」であり、
再びガンジス川の流れにのって人々の生活の中を懐かしむように通り過ぎ、
そして自然に還っていく。
この光景は、まるで人類の営みを表す壮大な絵巻物のようだった。
ガンジス川を後にし、飛行機に乗ってニューデリーに向かった。
あいにくニューデリーは天候が悪いうえに連日の疲れからか少し体調を壊してしまった。
そこでニューデリー観光は中止して休息をとり、トルコに向かうことにした。
トルコ
カッパドキアの空港に到着した時は大雨だったが、翌日の気球ツアーは快晴だった。
気球は生涯忘れることのできない素晴らしい体験となった。
家庭用コンロ1,000倍の火力といわれるバーナーから巨大な火柱が上がったかと思うと、ふわりとカゴが浮き、みるみる地面が遠ざかっていった。
気球はキノコのような奇岩や巨大な岩山の間を縫うようにして、空中を自由自在に泳いだ。
山際が次第に明るくなって日の出を迎える頃になると、操縦士は轟然と火柱を上げ、気球は一気に高度を上げた。
巨大な岩の群れが見る見る小さくなって地球の皮膚になり、丸みを帯びた地球の輪郭が眼前に現れた。
そして操縦士がバーナーを切ると、静寂が訪れた。
何の動力もなく一つのカゴが宙に浮かんでいるのはとても不思議な感覚だった。
やがて宇宙と地球の境界線が溶けて溶鉱炉のように赤く滲みはじめ、すべてのエネルギーが朝日に凝縮されると、空全体が明るくなって透き通るような水色に変わっていった。
まさに「1日が誕生した」と言えるほど荘厳な光景だった。
1日の始まりがこのように厳かな儀式で始まっていたと知ると、日々の生活自体が奇跡のように思われ、1日の価値の重みを実感した。
感動的な気球ツアーを終えると、次はカッパドキアの陸地を散策した。
カッパドキアは奇岩だけでなく、岩を利用した天然の建築物が多く存在している。
かつてキリスト教徒がイスラム教徒から厳しい迫害を受けていた時代、岩山を利用して「岩窟教会」を作ったり、地下8階まで掘り進めて「地下都市」を築くなどして信仰を守り抜いていた。
イエス・キリストの顔だけが掻き消された壁画は、当時の痛ましい傷跡として時代を超えて語り続けていた。
散策の後はカッパドキアを一望する洞窟ホテルにチェックインし、長い長い1日を終えた。
イスタンブールにはバスで向かった。
【イスタンブールで訪れた場所】
・アヤソフィア
・トプカプ宮殿
・スルタンアメフト・モスク
・ギュルハネ公園
・バシリカ・シスタン(地下宮殿)
・トルコ・イスラム美術博物館
・国立考古学博物館
・ガラタ橋
旧市街の観光地を一通り巡った後、ガラタ橋を渡って新市街に移動し、美しいモスクを背景に行き交う人々や船を眺めながら、カフェ発祥の地でトルココーヒーを飲んだ。
トルコという国はボスポラス海峡を挟んでヨーロッパとアジアが隣接する位置にあるため、ヨーロッパとアジアの両方の面影を湛えている。
去年旅した懐かしいヨーロッパの国々と、これから旅するアジアの国タイに想いを馳せながら、ガラタ橋のレストランで買ったサバサンドを頬張った。
次はバンコクに向かった。
タイ
バンコクは2回目なので一通りの観光名所は知っていたので、今回は警察署の射撃場に行ったり、ぶらぶらと街を散策したり、気の赴くままに時間を過ごした。
バンコクの街は相変わらず活気で溢れていた。
近代的な高層ビルやショッピングモールが建ち並ぶ大通りから少し外れて路地裏に入れば、昔ながらの屋台や個人商店が並ぶもう一つの顔が現れ、同じ空間でタイムスリップをしているようで面白かった。
「未来」と「過去」が激しくぶつかり合うエネルギーが「今」の時代を作り出している様子は、日本の高度経済成長期を連想させた。
しかし今の日本は「失われた20年」の氷河期で冷凍保存されており、時間が止まってしまったようだ。
「燃え尽き症候群」のままでいるのか、それともいつか「燃え尽きた灰」の中から不死鳥が飛び立つ日がくるのだろうか。
沖縄
バンコクを後にし、宮古島に向かった。
まだ6月下旬であったが、沖縄はすっかり夏だった。
民宿にはフランスから旅行に来た家族や、北海道から日本一周中の青年や、美容室経営者であり格闘家でありカメラマンでもある海外のスラム巡りが趣味の人などいろいろな人がいて楽しい時間を過ごすことができた。
到着した日の夜、北海道の青年が「星が一番綺麗に見える場所がある」と私をそこに連れて行ってくれた。
街灯もない真っ暗な山道を車で走り、小さなプライベートビーチのような砂浜に案内された。
砂浜に降り立って空を見上げた瞬間、息を飲んだ。
今にもこぼれ落ちそうな朝露の星々が、夜空の天蓋一面をびっしりと覆っていた。
さざ波以外何も聞こえず、世界でここだけ時間が止まっているようだった。
翌日は朝からタクシーを貸し切って運転手さんに島を案内してもらうことにした。
気の良さそうな運転手さんによるガイドのもと、宮古島の素晴らしい景色を堪能することができた。
この日は雲ひとつない青空が広がり、エメラルドグリーンの海はまるで液体でできた鉱石のように深みのある美しい色彩を放っていた。
タクシーはそのまま空港に向かい、石垣島に飛び立った。
【石垣島で訪れた場所】
沖縄の美しい景色と優しい人たち、美味しい料理とゆったり流れる時間…。
この旅を締めくくるにふさわしい場所だった。
そして飛行機は、夏の沖縄から梅雨の本州に向けて飛び立った。
長い長い冒険の旅はひとまずここで幕を閉じた。
8.国内、アメリカ一人旅
国内一人旅
50日間のヨーロッパ旅行から帰国すると、今度は国内旅行に出掛けた。
北海道(函館、札幌、小樽、摩周湖、屈斜路湖、網走、知床、釧路)、九州(福岡、長崎、軍艦島)、軽井沢、瀬戸内海(直島、豊島)
など今まで行きたかった場所を訪れた。
国内旅行を通して、改めて日本の良さを実感した。
公共交通機関が定刻通り運行し、サービスが行き届いていて、しかも物価が安いという旅行者にとっては最高の環境だ。
そして何よりすごいのは、驚異的な治安の良さだ。
夜中に一人で出歩いても平気ということがいかにすごいことか海外に出て初めて実感させられた。
ただ気になったのは、通勤電車に乗った時「疲れ切った日本人の姿」と 「賑やかな外国人観光客の姿」がとても対照的で印象に残った。
アメリカ一人旅
国内旅行を一通り終えたあと、再び海外に旅立つことにした。
次の目的地をアメリカに決め、ニューヨーク、ワシントンD.C、ラスベガス、グランドキャニオン、サンフランシスコ、ロサンゼルスの順に回ることにした。
そして、再びリュックひとつでアメリカに出発した。
<ニューヨークで訪れた場所>
・ホイットニー美術館
・チェルシーマーケット
・ブッシュウィック
・セントパトリック教会
・トランプタワー
・ロックフェラーセンター
・自由の女神
・ウォール街
・911メモリアル
・ワンワールド展望台
・チャイナタウン
・メトロポリタン美術館
・アメリカ自然史博物館
・ダコタ
・セントラル・パーク
・ブルックリンプロムナード
・MOMA
ニューヨークに降り立つと、高さを競い合うようにそびえ立つビル群に圧倒された。空を見上げるとビルの先が霞んでいて吸い込まれそうだった。
ニューヨークでは面白い日本人と出会った。
彼はキックボクシングの元チャンピオンで世界一周の最終地点としてニューヨークに滞在していた。
お互い旅してきた国の話題で盛り上がり、すぐに意気投合した。
彼は「トランプ大統領に会いに行く」と言ってアポなしでトランプタワーに向かうなどとても行動派でユニークな人物だった。
結局トランプ大統領には会えなかったが、後日訪れたパラオでは元大統領のクニオ・ナカムラ氏には会えたという。
彼とは今でも連絡をやり取りする友達だ。
ニューヨークを一通り観光すると、バスでワシントンD.Cに向かった。
<ワシントンD.C.で訪れた場所>
・ナショナル・ギャラリー
・スミソニアン博物館
・国立航空宇宙博物館
・ワシントン・モニュメント
・ホワイトハウス
・リンカン・メモリアル
・トマスジェファーソンメモリアル
・フランクリンルーズベルト記念碑
・マーチンルーサーキングメモリアル
美術館や博物館の大きさに終始圧倒された。
しかしワシントンD.C.は政治の中心地なので落ち着いた街のイメージがあったが、周辺地域に行くと麻薬中毒者が徘徊していたり、地下鉄もニューヨークと比べて殺伐とした雰囲気が漂っていた。
メディアはあくまでイメージを伝えるものであって、必ずしも真実を伝えているわけではないことを改めて実感した。
危険な場所には近寄らず、明るい時間帯に観光して、早々にホテルに引き上げた。
次のラスベガスには飛行機で向かった。
マッカラン国際空港に降り立つと早速スロットマシンが並んでいて、いかにもラスベガスという光景だった。
夜のラスベガスはどこを見てもきらびやかで、昼間よりも輝きを増していた。
遊園地、サーカス、古代エジプト、パリなどホテルごとにテーマがあり、ヴェネツィアをテーマにしたホテルでは実際に川が流れていて、ゴンドラにも乗れる。
どこも活気に溢れ、皆楽しそうにお酒を飲んだり、カジノを楽しんだりしていた。
宿泊するホテルに戻ると、ちょうど噴水ショーが始まるところだった。
音楽に合わせて水が軽快にダンスを踊り、クライマックスには轟音とともに140メートルもの見事な水柱が立ち上がった。
ラスベガスはもともと砂漠のオアシスだったが、後にこれほど見事な蜃気楼が現れるとは誰も想像できなかっただろう。
ラスベガス最終日は、グランドキャニオンに向かった。
眼前に広がる広大な景色を目の当たりにして、
距離感が狂うほどのスケールの大きさに言葉を失った。
同時に、今まで人間の身体を基準にして人工的にデザインされた空間の中で生きてきたことに気付かされた。
日本では見られない無限に広がる荒野を前に、ただただ圧倒された。
次にサンフランシスコに向かった。
<サンフランシスコで訪れた場所>
・フィッシャーマンズワース
・チャイナタウン
・サンフランシスコ現代美術館
・デヤング美術館
・カリフォルニア科学アカデミー
・ゴールデンゲートパーク
・アルカトラズ島
サンフランシスコでは、旅の途中で知り合ったS氏の紹介でシリコンバレーの有名企業を見学するなど貴重な体験をすることができた。
サンフランシスコはポルトガルの都市のように坂が多く、ケーブルカーが走っていた。潮風に吹かれながら、長い坂を走るケーブルカーは爽快だった。
次はロサンゼルスに向かった。
<ロサンゼルスで訪れた場所>
・ロサンゼルス現代美術館(MOCA)
・グリフィス天文台(プラネタリウム)
・ゲッティ・センター
・ジュラシック・テクノロジー博物館
・サンタモニカピア
・ビバリーヒルズ
・チャイナタウン
・ハリウッド
・ロサンゼルスカウンティ美術館
ロサンゼルスは気候の影響からか陽気でフレンドリーな人が多く、とても居心地のいい街だった。
グリフィス天文台から夕陽に赤く染まる街を眺めている時、「街のガイド兼カメラマン」のラモンさんと出会った。
夕陽を眺めながら、ロサンゼルスの歴史や街の見どころなどを色々教えてくれた。
開放的でフレンドリーな街の雰囲気に魅了され、また一つ好きな街が見つかった。
アメリカ旅行最終日はサンタモニカのビーチで過ごした。
ここは世界中から集まる観光旅行客とそれを楽しませる大道芸人、軒を連ねる賑やかなお店や屋台、遊園地などが一カ所に集まっている。
人々が行き交う様子を定点観測するだけでも十分楽しめた。
日本から押し寄せるさざ波に耳を傾けながら、地平線が炭火のように赤く燃え、星々がシャンパンの泡のように夜空にはじけるまで、この平和な時間を心ゆくまで堪能した。
7.ヨーロッパ一人旅
ヨーロッパ一人旅
まずは、ヨーロッパ12カ国20都市を主に列車で旅することにした。
【訪れた国と都市】
イタリア(ローマ、フィレンツェ、ヴェネチア、ミラノ)→フランス(ニース)→モナコ公国→スペイン(バルセロナ、マドリッド)→ポルトガル(リスボン、ポルト)→フランス(パリ)→ベルギー(ブリュッセル)→オランダ(アムステルダム)→ドイツ(ベルリン)→ポーランド(ワルシャワ、クラクフ)→チェコスロバキア(プラハ)→オーストリア(ウィーン)→ドイツ(ミュンヘン)→スイス(チューリヒ)→イタリア(ミラノ)
事前に50泊分の宿泊予約をし、google callenderにスケジュールを記入し、
リュックひとつで50日間の長い旅に出掛けた。
旅のトラブルはしょっちゅうで、毎日が冒険だった。
突然GPSもネットも電話も使えなくなったり、宿泊先の受付が不在で建物に入れなかったり、ジプシーの集団に取り囲まれたり、プラハ駅の総合案内所で”I don’t know.”と返されたり…。
おかげで、どんなトラブルがあっても冷静に対処できる自信はついた。
しかしながら、終始ヨーロッパの文化レベルの高さには圧倒された。
教会
王宮
街並み
美術館
風景
公園
ヨーロッパで特に印象的だったのは、公園だった。
全体にゆったりとした時間が流れていて、人々の生活を楽しんでいる姿がとても印象的だった。
公園を散歩すると、芝生の上に寝転んで本を読む学生、階段に座っておしゃべりをする女の子、バイオリンの生演奏を聴きながら肩を寄せ合う恋人たち、皆思い思いに自分たちの時間を楽しんでいた。
人との交流の仕方がとても自然で、生活を楽しむことに重点を置いている様子がよく伝わった。
ヨーロッパの人たちは生活の中に仕事を位置づけており、日本人は仕事の中に生活を位置づけているように感じた。
人々が自由に振舞いながらも全体に調和が取れているのは、自分の存在を大切にするのと同じように、他人の存在も大切にしようとする配慮が働いているからだと思う。
昔の日本人もそうした配慮ができる人が多かったが、最近は「他人の存在は気にしない。自分の好きなようにやりたいことをやる。」という個人主義が流行してギスギスしている。
これはCell(個室)に閉じこもって他者との関係を遮断するいわば個室主義であり、欧米の個人主義とは根本的に異なるように思う。
欧米人は他者を尊重するがゆえに人との交流に積極的で、
日本人は自分を尊重するがゆえに人との交流に消極的なのではないだろうかか。
そう考えれば、欧米人はパブリック(互いに自立した個人同士)な世界で活躍の場を求め、日本人はプライベート(自分だけ、あるいは知り合い同士)な世界で活躍の場を求める傾向にあるのは納得出来る。
また、文化が生活の中にしっかり根付いている点も印象的だった。
日本文化は寺社仏閣、能楽、茶道、着物などいろいろあるが、それらを生活に取り入れている人は一般的に少ない。
ヨーロッパは文化が生活の中に浸透していて、世界的に有名な教会でも無料で入れる教会が多く、毎朝礼拝に通ったり、告解をしたりして生活の場として人々の心のよりどころになっている。
美術館に関しても無料で入館できる日が設定されており、作品の写真を撮ったり、キャンバスを持ち込んで模写をしたりすることができ、高度な文化に親しむ機会を広く提供しようとする配慮が感じられる。作品もガラスケースに入れずに剥き出しのまま展示されているため、作品を間近で鑑賞することができ、細かい筆の運びなどを見て画家の息遣いを感じとることができる。
欧米の美術館に行くと教師が子供たちを連れて美術の授業をするシーンによく遭遇する。
子供たちが車座になって教師の授業を聞き、教師が「これは何に見えますか?」と質問すると、子供たちは口々に発言する。
教師は子どもたちの感想を上手にまとめながら子供の想像力を膨らませていて、瞳を輝かせながら授業を受ける子供たちの姿が印象的だった。
日本は素晴らしい文化がありながら、文化と生活が切り離されていてとてももったいないと思う。
今や 文化はガラスケースの中に厳重に管理され、生活は使い捨ての安物やその場しのぎの流行で溢れている。
国の文化はもともと生活の中から出てきたものなので、再び生活の中に戻すことができれば、もっと心豊かに暮らせるのではないだろうか。
海外に出ると自分の国について冷静に見つめなおすことができて、様々な気づきがあった。
ヨーロッパ旅行は大きな賭けだったが、その分収穫は大きかった。
子供の頃からずっと部屋に閉じこもっていた私が、こうして世界を自由に飛び回るようになるとは、改めて人生の不思議さを実感する。
6.転換期
再出発
新しい職場は、入居者数150名、職員数約40名の「サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)」だった。
以前勤めていた有料老人ホームに比べて規模が大きく、入居者さんのタイプも仕事の進め方も違って戸惑うことが多かったが、個性的で楽しい仲間に恵まれて職場にはすぐ馴染むことができた。
順調に仕事を覚えて正社員になると、仕事ぶりが評価されて複数のフロアを受け持つリーダーに昇格した。
リーダーになると現場の介護業務に加え、担当するフロアの管理業務や委員会活動、毎日20名ほど出勤するスタッフの訪問介護の予定を組んだりと仕事内容は多岐に渡り多忙を極めたが、次々に課題をこなしていくことが楽しくて毎日が充実していた。
施設長も私がやりたいことをサポートしてくれたため、仲間と一緒に職場環境の改善に努め、毎年全施設で行われるワークショップのファシリテーターにも抜擢されて、大勢の前でプレゼンをすることもあった。
ひたすら無我夢中で仕事に打ち込むなかで、施設長になる話を頂くようになった。
嬉しい反面、自分の将来が何となく見えたような気がして、少し足を止めて考えた。
「ここでもし施設長になれば生活は安定するが、施設だけで人生を終えることになる。
果たしてそれでいいのか?
やり残したことはないか?」
そして、ある日事件が起きた。
いつものように食堂で配膳を手伝っていた時、入居者さんに誤って別の方のビタミン系の栄養剤を手渡してしまったのだ。
その方は私の担当外のフロアに入居したばかりでまだ顔と名前が一致しておらず、私が名前を呼ぶとその方が返事をしたので渡してしまった。
テーブルの名前を見て間違いに気がついた時にはすでに遅く、栄養剤をゴクリと飲み込んでしまっていた。
すぐにナースに報告すると「栄養剤だから全然問題ないよ。」と言ってくれたが、私はリーダーの立場上施設長にも報告しようと思い、ありのままを伝えた。
その日の午後、施設長から食堂に呼び出された。
食堂に入ると、休憩時間中のスタッフが食事をとったりしてくつろいでいた。
そしてスタッフが注目する中で、施設長から事実確認が行われた。
いくら説明しても「どうして名前を間違えて配ったのか。」と何度も突き返され、次第に返す言葉が見つからなくなり、最後はただ謝罪するしかなかった。
「栄養剤とはいえ、誤って配ったことは大きな過失であり、十分に反省している。
誤飲後はすぐナースに報告し、指示を仰いで適切に処置するように努めた。
他にどんな方法があったのだろうか。
反省して謝罪してもなお執拗に追い詰めるのは、むしろ黙っていた方が彼にとって都合が良かったということなのだろうか。」
この時いろんな思いが頭の中を駆け巡った。
「しかし私がもしあの時報告せず自分をごまかしていたら、今後もずっと自分をごまかし続けるようになるだろう。
そうなれば今まで積み上げてきた努力がすべて砂山が崩れるように跡形もなくなってしまう。
それに純粋な気持ちで介護の世界に入った頃の自分を裏切ることになる。
やはり、あの時の判断は正しかったと信じたい。」
こう思った瞬間、施設長に対する信頼は大きな皿を落としたように真っ二つに割れた。
そして後日、辞表を提出した。
退職後、かねてから紹介を受けていたサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)に転職した。
以前と異なる点は、入居者数50名と小規模であることと、デイサービスが併設されていることだった。
「施設の仕事」と「デイサービスの仕事」を兼任しなければいけなかったため、最初は覚えることが多く大変だったが、職場の人は皆親切な人ばかりだったので順調に仕事を覚えることができた。
仕事を一通り覚えた頃、世の中は民主党政権から自民党政権に変わり、時代の変わり目を直感して「株式投資を始めるチャンスだ」と確信した。
「ねじれ国会が解消されて長期政権になり、日経平均株価も底値なのでおそらく外資が一気に流れ込んでくるだろう」と思ったからだ。
この読みは当たり、後にアベノミクスと呼ばれるようになった。
ある銘柄を取得したところ、みるみる株価が上がり、ついに10倍以上の株価をつけた。
さらに信用口座を開設して株の売買を繰り返すうちに毎日が給料日のような状態になり、1日で100万円以上稼ぐこともあった。
次第に金融経済と実体経済は全く別物であることがわかり、機関投資家が相場を作る現実を知ってお金に対する価値観が根本的に変わった。
一通り欲しい物を手に入れてしまうと、次第にモノからコトに関心が移っていった。
国内や海外に行って写真を撮ったり、SNSなどで世界の人と交流したりして海外の友達もできた。
夜勤明けに香港に行って、帰国してそのまま出勤するなど羽が生えたように自由に飛び回った。
そして新しい出会いや経験を通して世の中を知れば知るほど、世界がいかに多くのまだ知らないことに満ち溢れているかを実感した。
スポットライトに当たらない影の部分は自分から見えていないだけで実は存在し、その世界を知るためには思い切って飛び込むしかない。
そうすることで影の部分に新たなスポットライトが当たり、自分の地図がアップデートされる。
そう考えると、世界だけでなく自分自身の中にも影の部分がたくさんあることに気が付いた。
世界を知ることは、自分を知ることでもある。
この命が消える前に、自分が何者であるかを知りたい。
そして、自分の人生を生きてみたい。
ある時、入居者さんはこうつぶやいた。
「若い時はお金はあるけど、自由はある。でも今はお金はあるけど、自由がない。できる時に何でもやっておいた方がいいよ。やって失敗した方が、死ぬまで後悔するよりもマシだから。」
「自分にとって今しかできないことは何だろう?」
そう思った時、不登校の時からずっと抱いていた夢である海外一人旅が浮かんだ。
「今なら投資で得たお金は十分ある。年齢も30台半ばだし、時間も体力もある。もしこのチャンスを逃したら二度とできないかもしれない。」
後悔のない人生を送るために海外一人旅を決意した。
5.自殺
自殺未遂
次の仕事を決めずに辞めてしまったものの、しばらくの間は何もしたくなかった。
布団に入ったままじっとしていると、部屋の窓から食器を洗う音や井戸端会議の笑い声など生活の音が聞こえてきた。
それを聞いていると、自分だけ世の中から取り残されたような気がした。
鉛色のどんよりとした冬空がそのまま胸に流し込まれたように憂鬱で重苦しい気分だった。
木目が渦潮のように蠢(うごめ)く天井をぼんやり眺めていると、亡くなった彼女のことが思い出された。
「就職活動で苦しんでいた彼女もこんな気持ちだったのだろうか。
私は就職活動をせずに父の会社に入ったので、十分に彼女の気持ちをわかってあげられなかった。
一人でずっと戦って辛かったろう。
今私が同じような思いをしているのは、彼女を見殺しにした罰だ。」
彼女が死に至るまでの気持ちを考えているうちに、自殺サイトを見るようになった。
不思議なことに自殺サイトを見ている間は気持ちが安らいだ。
いつでも死ねるという安心感が、調整弁の役割を担っていたのかもしれない。
知らず知らずのうちに絶望の量に比例して自殺の知識が増えていった。
そして白い灰のような雪が舞い落ちる冷たい朝、自室のメタルラックにネクタイを巻きつけて首吊り自殺を図った。
ネクタイを首にかけて一気に体重をかければ、もう二度とこの世に帰ってこれないと思うと、底なし井戸を覗いたような恐怖を感じた。
何度か躊躇しながらも段々とコツを覚え、意識が飛ぶポイントを探り当てた。
そして、決行。
目が覚めると、父の顔があった。
私の顔を覗き込んで頬を叩きながら、何かを叫んでいた。
「どうやら失敗したようだ。」
意識消失後激しい痙攣によってラックが倒れて本が散乱していた。
しばらく身体や唇が痺れて思うように動かず、頭もぼんやりしていた。
命が助かった安心感よりも、死に切れなかったことに絶望した。
今度は確実に死のうと思い、ラックが倒れないように工夫し、家族が出払った後再度自殺を試みた。
しかしどういうわけか前回と同じようにラックが倒れ、意識を取り戻すと散乱した本の中に埋もれて横たわっており、揺れるカーテンの隙間からこぼれる光をただぼんやりと眺めていた。
帰宅した母親が部屋に入ってきて事の事態を察し、特に取り乱した様子もなく私の身体を心配してくれた。
翌朝目が覚めると、枕元に一枚の手紙が置いてあった。
「今まで慣れない仕事を本当によく頑張ったね。
疲れた体と心をゆっくり休ませて下さいね。
あなたには父や母、兄もいるのですよ。
家族みんなで助け合って一歩一歩前へ進んで行こうよ。
又、いい時も必ず来るからね。
昨晩言った『お母さん、今までありがとう』という言葉は正直寂しかったよ。
この言葉はお母さんが人生を終える時に言って欲しいな。
決して死ぬ事は考えないで。お母さんの大切な息子だからね。
毎日家族で顔を合わせられるのが何よりの幸せだから。
お母さんの心の中はそれでいっぱい。
それがお母さんの幸せだから。
心が苦しかったら人に話す事が大事。
お母さんなかなか気が利いたこと出来ないし言えないけど、誰よりもあなたの事思っているからね。
これから先、無理せず自分を大切に!ね!
母より」
手紙を読みながら涙が止まらなかった。
母の手紙を読んで、今まで自分一人だけで頑張っている気になっていた自分を深く反省した。
今の自分はいろんな人の支えで成り立っていることに初めて気がついた。
私は【過去の自分】にとらわれて自縄自縛になり、周りが何も見えていなかった。
一体自分は何に対して無理をしていたのだろうか。
カッコ悪くたっていいじゃないか。情けなくたっていいじゃないか。
今の自分をごまかさずにそのままの姿を受け入れることこそが、本当に芯の強い人間ではないか。
変なプライドやこだわりを捨てて、素直な気持ちで生きていこう。
そして、いろんな人の支えでこれまで生きてきた今の自分をもっと愛そう。
あの時の自殺は失敗ではなかった。
【過去の自分】が首を吊って死んだのだ。
そして生き残った私は、
命の炎が燃え尽きるまで全力で生き抜くのだ。
人生をプロセスと考えれば、
失敗は成功に至るプロセスであり、成功もまた次の失敗を生むプロセスに過ぎない。
完全を越えた不完全を繰り返していくことで、ドミノ倒しのように自分の可能性をより大きく広げていくのだと思う。
つまり、
自分というものを無限に追求するプロセスそのものが、生きるということではないだろうか。
今回の失敗のおかげで自分に向いている仕事がよくわかった。
私にとって最もやりがいのある仕事は、人の喜びに貢献する仕事だ。
しかし介護の仕事では収入面に不安がある。
どうすればいいかと色々調べた結果、まとまったお金を得るためには投資しかないことがわかった。
そこで「お金は投資で稼いで、好きな仕事をしよう」と思い、株式投資の勉強を始め、再び介護の仕事に戻っていった。