Re:Birth

Livin' as an ice-age-generation

4.社会復帰

介護のしごと

介護の仕事は初めての経験ばかりで戸惑うことが多かったが、良い先輩に恵まれて順調に仕事を覚えていった。
有料老人ホームは比較的裕福な方が多く、元キャリア官僚、元大企業役員、作家などいろいろな人がいて人間関係の相関図は毛細血管のように複雑に入り組んでいた。

しかし「どんな三角形でも内角の和は同じ」であるのと同様に、人間はで生まれてで死ぬ以上、その間もであることには変わりがない。
世俗の地位を離れた時、その人の人間性生き様赤裸々に現れるように感じた。

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いつも嫌味を口にする人は人からわれて孤立し、
いつも感謝を口にする人は人からされていた。

つまり、

自分中心に振る舞えば自分しかいなくなり、のために振る舞えばが集まる。

とてもシンプルだ。 

老人ホームは人生を終わりからさかのぼって考えることができ、生き方を学ぶには最高の学校だった。
授業料を払わずに逆にお金をもらって学べるのはとても幸運だと思いながら、その恩返しの気持ちと人生の先輩としての敬意を込めて仕事をした。

ある朝、初めて人が死ぬところを目の前で見た。
私は車椅子に座って食事をとる入居者さんを見守りながら、食堂のカウンターで洗い物をしていた。
彼女はいつものようにゆっくりと食事をとっていたが、突然スプーンが落ちる硬い音が響いたかと思うと、カッ!と目を見開いて全身が繊毛のように震え、トロんと白眼をむきながらゆっくりと天井を見上げるようにして頭が後ろに倒れていった。
その様子はまるで魂が身体を抜けて煙のようにすうっ…と天に伸びていくようだった。

その後も何人かの死を見送った。
最後まで「死にたくないと」苦しみながら亡くなる人、普通に生活していたのに突然亡くなる人、眠るように静かに亡くなる人…。
人の死を見送るたびに、生きる意味について考えさせられた。

もし明日死ぬと知らされたらをするだろう?
後悔なく最後を迎えられるだろうか? 

自分が本当にやりたいことは何だろうかと考えるようになった。
不登校になってから特に何かを目指していたわけではなく、ただ【過去の自分】に負けないためにずっと勉強をしてきた。
しかし【過去の自分】など実際には存在しないので当然勝てるはずもなく、ゴールのないレースをただひたすら必死に走ってきただけだった。
そしていろんな障害をくぐり抜けて、いま介護という素晴らしい仕事に巡り会えた。
しかし人生設計を考えた時、今の給料では自分一人を養うことしかできない。
せっかく英語を勉強したのだからそれを活かす道もあるのではないか。 

そこで英語力を求める法人営業の面接にダメ元で受けてみると、TOEICの点数が評価されてなんと採用された。
その会社は、原料を海外から安く仕入れて国内メーカーに発泡スチロールを製造させ、それを主に漁業関係者に販売する専門商社だった。
海外の取引先の社長が新しく変わって英語しか対応できなくなり、急遽英語ができる人材を募集したとのことだった。 

翌日、事情を上司に伝えると背中を押して応援してくれ、理事長も「この業界に戻ってきたらいつでも帰っておいで。」と暖かく送り出してくれた。
出勤最後の日に入居者さんに挨拶すると、こんな自分のために涙を流してくれて、短い間だったが「今までここで頑張ってきたことは無駄ではなかったのだ」と感激して私も涙がこぼれた。

転職

新しい仕事では、英語を使った仕事といえば取引先の資料を翻訳するぐらいで、実際には法人営業が中心だった。

端的に言うと、海外の安い原料を武器に大手国内メーカーが牛耳る国内市場を切り崩していくのが仕事で、製造メーカーにはなるべく安いコストで製品を作らせ、販売先である漁業関係者にはなるべく高く売るブローカーだ。
そのため情報交換と親密度を高めるために接待を頻繁に行っていた。
私は上司に付いて日本全国を飛び回り、各地で接待漬けの日々だった。
高級なお店で美味しい物をたくさん食べられるので周囲から羨ましがられたが、仕事についていくのに必死であまり食べた気がしなかった。 

漁業関係者は朝が非常に早いので、出張先で夜遅くまで接待を受けた後、数時間ほど寝て市場に向かわなければならず寝不足の日が続いた。
主に車で移動していたのだが、上司から「取引先のルートは一回で覚えろ。」と言われていたので、慣れない都会の運転に神経をすり減らしながら必死で道を覚えた。

上司は場を盛り上げるのが上手く、相手の懐に入り込むのが非常に巧みだった。
上司からは「お前はもっと遊びを覚えろ。」と言われていたが、とてもサーフィンやバイクを覚えるような余裕はなかった。
この体育会系のノリが苦痛で仕方なかったが、「とにかく早く慣れるしかない」と思い、周りに調子を合わせようと必死に頑張った。 

毎日めまぐるしく変化する環境睡眠不足、仕事を早く覚えないといけないプレッシャーから次第に精神的に苦しくなり、会社に行くのが憂鬱になりはじめた。
でも「もし途中で辞めたら不登校時代に逆戻りになってしまう。」という恐怖心から何とか休まずに出勤していたが、私のしんどそうな様子を見て親も心配するようになった。
「ここでまた体調を崩してしまったら元も子もないよ。」と周りからも説得され、とりあえず試用期間まで勤めることにした。
酸素ボンベの残量が少ないままダイビングを続けるような緊張感で何とか試用期間を終え、会社を辞めた。
最後の挨拶を終えて会社を出ると雨が降っていた。
傘を持っていなかった私は、捨てられた犬のように冷たい雨に打たれながら駅まで歩いた。
とても惨めな気分だった。 

「たった3ヶ月前なのに施設の日々が遠い昔に思える。
やっぱり自分には福祉の仕事が向いているんだ。
本当に軽率なことをしてしまった。
今さらこんな形で施設に戻ることなんてできない。
自分は一体何をやってるんだ…。」 

帰りの電車に揺れながらぼんやりと外の景色を眺めていた。
電車は巨大な振り子のように、都会から田舎に揺り戻されていく。 

電車のスピードが加速するにつれて景色は「線」になった。
しかし私という存在は「点」のままどこにもつながれずにいた。

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3.ひきこもり

ひきこもり

しばらく暗い冬眠生活のような日が続いた。
髪は伸び放題で体重も増え、タバコまで吸うようになった。

気の抜けたぬるいビールをすするような後味の悪い気分で目覚め、夜中に活動しては明け方に眠るという毎日を送っていた。

私にとって昼間の光は世間の目だった。
「何者でもない私」にとっては、突き刺すように眩しかった。

そのため夜が一番安らいだ。

真っ赤に熟した夕日がゆっくりと街の中に沈んでいくにつれ、昼間のチリチリとした熱気は地球の裏側に遠のき、ダイヤモンドの星を散りばめた夜のヴェールが優しく世界を包み込む。
暗闇のヴェールをまとった夜の世界は、仮面舞踏会のような「匿名性」で私を外の世界に迎え入れてくれた。

f:id:tayutai0001:20190120064531j:plain 夜の闇に紛れながら散歩すると、この時間だけ普通の人になれたような気がした。
子供の頃は同級生よりできて当たり前と思っていた私が、いつの間にか普通の人憧れ恐怖を抱くようになっていた。

深夜、タバコを吸いながら窓の外を眺めるのが至福の時間だった。
夜空を撫でるようにたゆたうをぼんやりと眺めていると、星の煌めきが漁火のように見え、眠りに落ちた静かな街はまるで海底に沈んでいるように思われた。
海底に眠るタイタニック号のように、私も時空の狭間で静かに眠りたいと思った。

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しかしいつかはタイタニック号であれイカダであれ船出をしなければならない。
22歳になったら仕事をしようと決心した。
それまでにパニック障害を治さないといけないので、しばらく病院に通院することにした。

作業所

 病院の待合室にあるパンフレットを見ていると、精神障害者の作業所のチラシがあった。
作業所とはどういうところか知らなかったが、ひきこもりにも対応しているとのことで一度見学に行ってみることにした。 

作業所は病院から一駅ほど離れた場所にあるアパートの一室だった。
所長は都会的でキビキビした感じの女性だった。

案内されて奥の部屋に行くと、通所者の人たちは動物の革細工を作る作業をしていた。
作業に集中する姿はまるでフェルメールの絵のように穏やかで神聖だった。
全体に広がる平和的で陽だまりのような暖かさに魅了されて、通うことを決めた。

f:id:tayutai0001:20190120065949j:plain作業所という家以外の居場所ができたことで、大きな自信安心感を得ることができた。
外に出る目的ができたことが何よりも嬉しく、これでようやく社会とつながれたような気がした。 

はじめのうちは緊張して人と話せなかったが、スタッフさんの配慮と革細工の作業を通じてコミュニケーションが生まれ、次第に打ち解けて話せるようになった。
映画の話しをしたり、英語を勉強している人と洋書を貸し合ったりして、人との付き合い方を少しずつ学んでいった。

仕事

22歳を迎え、父の会社で働き始めた。

小さな食品工場だったが父が経営していたので人間関係では悩むことなく、マイペースに仕事をすることができた。
仕事をしているという大義名分ができたことで、自信を持って外を歩けるようにもなった。

仕事に慣れた頃、他の会社でも仕事をしてみたいと思い、休みの日に人材派遣の引越し作業、工場、倉庫作業などいろいろな仕事をした。
当時は深刻な就職難から有名大卒の人も派遣で働いていて、生まれた時代の違いだけでこれほど格差があるのか」と驚いた。
薄暗い工場の中、皆無表情で単調な作業を黙々と行い、社員の人たちが高圧的に指示する様子は植民地支配を思わせた。 

大勢の労働者たちが毎朝ぞろぞろと工場に吸い込まれ、夕方ぞろぞろと工場から吐き出される。
工場の中では永遠の昨日を繰り返し、背中を丸めながらコンビニ弁当を貪る。
この巨大な工場は、人を捕獲する【鉄の罠】のようだった。

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自殺

いろんな職場には行くもののなかなか友達ができなかった。
自分の過去を聞かれた時にどう答えていいかわからなかったので、雑談するのが怖かったからだ。
たまたま近所にひきこもりの自助会があることを知り、「ここだと友達ができるかも知れない」と思って行ってみることにした。
アパートの一室に入ると想像していたよりも賑やかで、すでに仲の良いグループが出来上がっていて会話に入りづらい状況だった。

何回か通ってみたものの、話し相手といえばスタッフのおばさんだけで参加者とは全然話ができず、毎回肩を落としながら家路についた。
ある時一人でソファに座っていると男性のスタッフから「孤独を愛する人ですね」と言われて腹が立ち、「孤独を愛するんだったらそもそも集まりには来ていません。話したいけど話せないからここで一人で座っているんです。」と反論したらどこかに去っていった。
スタッフの役割がイマイチわからず、これ以上通っても何も成果がないような気がして、次第に足が遠のいた。

それから友達をネットに求めるようになり、掲示板などで友達を募集するようになった。
その時近くに住む女性と知り合い、実際に会うようになった。
彼女は不登校はしていないものの、人と関わるのが苦手で生きづらさを抱えていた。
親との関係も悪く、本音で相談する相手を求めていた。

彼女と会う回数が増えるごとに関係を深め、付き合うようになった。
生まれて初めて彼女ができたことで毎日の生活が楽しくなり、行動範囲が一気に広がっていった。
今まで一人では行けなかったレストランや映画館などに行けるようになり、さらに遠出をするために車の免許も取得した。
4年間ほど付き合い結婚も考えていたが、彼女の自殺という形で幕は閉じられた。

完璧主義者の彼女は就職活動がうまくいかずに思い詰めていて、精神的に限界だった。
さらに追い討ちをかけるように親からのプレッシャーがあり、自分を責めてついに自らのを絶ったのだった。

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自殺未遂はそれまでに何度かあり、そのたびに私は夜中に車を走らせて駆けつけていたが、今回は仕事中ということもあって防げなかった。
夕方彼女から送られてきた最後のメールには、「今までありがとう。さようなら。」というメッセージとともに一枚の画像が添付されていた。
その画像には「ぶら下がり健康機」が写っており、棒の真ん中には輪っかのついたロープが垂れ下がっていた。 

彼女にもう二度と会えない悲しみ「助けられずに見殺しにしてしまった」という罪悪感にさいなまれ、身体が引きちぎられるように辛かった。

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「なぜ彼女だけが死んで、自分のような人間が生き残っているのか。」と自分の存在を否定するようになり、消えてしまいたいとよく思うようになった。 

思い出の場所に行くとそこに彼女がたたずんでいるような気がした。
女性の後ろ姿を見てはあれは彼女ではないかと思うこともあった。
そして思い出のかけらを一つ一つ拾い上げては、彼女のをもう一度自分の心の中に作り上げていった。
心の中でいつでも会えるように。

さらに追い討ちをかけるように、父の会社が倒産した。
恋人と仕事を同時に失い、生きる希望が見えなくなってしまった。
絶望の淵にいた時、親身になって話を聞いてくれたのが作業所の所長さんだった。
所長さんの人生経験の豊富さ、知識の広さ、そして何よりも愛情の深さに感銘を受け、「自分も福祉の仕事をしたい」と思った。

身近な人の死を経験したことで、【人はどのようにして人生の最後を迎えるのか】を知りたくなり介護の仕事をしようと思った。
そして彼女を最後の最後に孤独で辛い思いをさせてしまったという悔しさから、介護の仕事では「人に孤独を感じさせることなく最後まで寄り添ってあげようと思った。
それが彼女に対するせめてもの償いのように思えた。
無資格なので採用されるか不安だったが、幸いにも有料老人ホームに就職することができた。

ようやく雲間からが差し込まれた。

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2.不登校時代

不登校時代

転校先の学校は、田んぼと畑に囲まれた辺鄙な学校だった。
新しい学校になって私服に変わり、集団登校に変わり、通学路が2Kmほどもあったりと以前に比べてまったく変わってしまった様子に「ああ、ついに違う世界に来てしまったんだな」と実感した。

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転校先の先生はうっかりミスの多い先生だった。
転校初日の一番大事な日に先生が遅刻したため、私は紹介のないまま教室に入らざるを得ず、終わりの会でようやく紹介されるという最悪の初日を迎えた。

転校してしばらくの間は、転校生に興味津々の同級生たちに囲まれながら順調に学校生活を送っていた。
しかしある時から隣の席の女の子が誰もいないタイミングを見計らって、ボソッと私に辛辣な言葉を投げかけるようになった。 

彼女はちびまるこちゃんに出てくる野口さんのようなキャラで、嫌味を言ってはニヤニヤ笑っていた。
彼女は私以外の人には普通に接するのだが、私に対してだけ上から目線で嫌味を言ってくるため、だんだんと「自分だけどこかおかしいのだろうか?」と真剣に悩むようになってきた。
今まで周囲からチヤホヤされて育ってきたので、こういう経験はしたことがなく、とてもショックでどう対処していいのかわからなかった。
プライドが高かったので「女の子からイジメられてます」と誰かに相談できるはずもなく、暗い気持ちを抱えたまま学校に通うことがだんだん苦痛になってきた。

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ある朝、その日はどうしても学校に行きたくなくてトイレに閉じこもっていると、ドア越しに父親が怒鳴りつけて無理やり外に引き出されたことがあった。
私は必死に抵抗したが、そのまま玄関の外まで引きずり出され、ふと顔を上げると目の前には集団登校で迎えに来た生徒たちがこちらをじっと見ていた。
皆の前で恥をかかされてプライドをずたずたにされた悔しさで、父親に対する憎悪が激しく燃え上がった。

毎朝いつも学校の準備をして朝食を食べるものの、登校時間が近づくにつれて吐き気がするほど強いプレッシャーに襲われて、どうしても学校に行けない日が続いた。

ある日いつものように朝食を食べていると、突然父親が「もういい加減に学校に行け!」と激怒し、コップを振り上げて投げつけようとしたため、あまりの気迫に「殺される」と思って慌てて2階に駆け上がった。
追いついた父親と2階で揉み合いになり、強烈な張り手を受けて目の前が一瞬暗くなった。
床を見ると赤い血が点々と落ちていた。

「転校する前はキチンと学校に行っていたし、今も学校に行かないといけないのは十分わかっている。行かないのではなく、行けないのだ。

そこをどうして考えようとせず、自分の世間体だけを考えるのか。」

と今まで溜まっていた怒り屈辱、理解されない悔しさなど色んな感情が絵の具を混ぜたようにグチャグチャになった。
そして声も出さずに熱い涙が頬をつたい、燃えるような目で父親をみつけた。

そしてこの日から完全な不登校生活が始まった。

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 毎朝集団登校をする同級生たちの姿を窓からよく眺めていた。
元気に跳ね回る黄色い帽子とガチャガチャと鳴るランドセルの音が遠い世界の出来事のように感じられた。

無人島に一人取り残されて、そこから遠くの船を眺める気分はきっとこんな感じだろうと思われた。 

家では特にやることがなかったのでNHKの教育テレビや朝のワイドショーなどを見て過ごしていたが、ズル休みのような気がして全く楽しくなかった。
自分には世の中の楽しみを享受する資格がないような気がして、すべての物がよそよそしく感じられ、私を非難しているようにさえ感じられた。

すべての物の色彩がなくなり、何を食べても時間が経ったガムのように味気なかった。

次第に留守中に鳴るインターホンや電話の音にビクビクするようになり、なるべく自分の存在消そうとした。

注射器に閉じ込めた気泡に水圧をかけると小さくなるように、

逃げ場のない私は少しの圧力に反応しては小さくなっていた。

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父は必要なものは何でも与えてくれた。
学研や進研ゼミなどの通信講座で一人で勉強を続け、高学年になってからは家庭教師を付けてもらった。
子供の頃から受けていたエレクトーンのレッスンも、高校受験で辞めるまで家で受けさせてもらっていた。

当時流行っていたテレビゲームなどのオモチャもいろいろ買ってくれた。
おかげで学校には行っていないものの、豊富な遊び道具がきっかけとなって近所に住む同級生と遊ぶことができた。
友達と遊んでいる時は普通の子供に戻れたような気持ちがして楽しかったが、その反面学校に行かずに友達と遊んでいることに後ろめたさを感じていた。 

唯一の癒しは、ラブラドール・レトリーバーラブだった。
庭でボール遊びをしたり、ブラシで毛並みを整えたり、一緒に日向ぼっこをしたり、親友のようにいつも寄り添っていた。
イヤなことがあって落ち込んだ時はいつも優しい瞳で私を迎えてくれた。

ラブは私が22歳の時天国に昇っていった。
最期の別れの瞬間、精一杯しっぽを振ってくれた姿は今思い出しても目頭が熱くなる。

年に数回ほど友達に誘われて学校に行くことがあった。
私が再び学校に通えるようにと協力的で親切な同級生もいたが、一方で「友達とは遊べるのに学校に行かないのはズル休みだ」と言う同級生もいた。
それを聞いてとてもショックだったが、自分でも学校に行かないのは悪いことだと思っていたので「やっぱり内心では皆もそう思っているんだ」と落ち込んだ。

何度か学校に行こうと努力したが、やはり不登校児に対するクラスメートからの特別な視線は避けられず、結局最後まで学校の中に自分の居場所を見つけることができなかった。

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 私が不登校になってからの一番の苦しみは、優等生だった頃の【過去の自分】とのギャップだった。

「もし転校しなかったら、勉強もスポーツもできていい学校に通って社会で活躍していただろう」という思いが強く、不登校になってからずっと【過去の自分】が影のようにつきまとい、【今の自分】を否定していた。

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 【過去の自分】の呪縛から逃れるために別の世界で挑戦したいと思い、その時から海外に興味を持つようになった。
大学も東大ではなく、自由な校風と聞いていた京大を目指すようになった。

15歳頃からZ会に切り替えて一人で勉強し、文系理系すべての教科を学習し、CNNやBBCなどの海外メディアを観ては世界に思いを馳せていた。
やがて全国模試で偏差値70台をとるようになり、Z会の京大即応コースで何度か成績優秀者ランキングに載るまでになった。
しかし成績ランキングで自分の名前の下に、有名進学校が並んでいるのを見た時でも、【過去の自分】に負けているような気がして素直に喜べなかった。 

連日の受験勉強によるストレス睡眠不足、さらに近所に引っ越してきた人の騒音が重なり、予備校の夏期講習に通う電車の中でついにパニック障害になってしまい、試験が受けられない状態になってしまった。
センター試験に失敗し、志望校ではない大学に合格したものの、もはや【過去の自分】にはもう追いつけないと悟った。
そして、【過去の自分】に敗北した。 

深い絶望と心のを負い、再び谷底に転がり落ちていった。

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1.少年時代

自己紹介

私は1979年生まれのいわゆる氷河期世代

簡単に経歴をご紹介すると、

バブル絶頂期の少年時代、不登校、受験戦争、ひきこもり、バブル崩壊就職氷河期、非正規雇用ブラック企業、身近な人の自殺、自殺未遂、介護、株式投資アベノミクス、世界18カ国一人旅。

時代の荒波飲まれ、流され、時には乗りこなしながら何とかここまで生きてきました。

あなたとここで出会ったのも何かの
同じ時代を旅する者同士、しばし足を休めて話を聞いてくれれば幸いです。

過ぎ行く時代の流れは絶えずして、しかもあの日には2度と戻らず。
よどみに浮かぶバブルは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし。

時代の(あくた)に流される前にうたかたの記をここに記す。 

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少年時代

幼少期の私は見た目は大人しいがかなり負けん気の強い性格だった。

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おかげで5歳の時、髄膜炎にかかって髄液検査(背骨の隙間に注射針を刺して髄液を取り出す検査)を受けた時も、泣かずにじっと我慢していたので看護婦さんの間で人気者になることができた。

計算高い性格9歳年上の兄から受け継いだ。

兄は、ケンカのやり方や大人顔負けの交渉術などのライフハックをいろいろ教えてくれた。
兄はとても世話好きだったので、幼稚園の頃からエアガンで遊んだり、当時はまだ珍しいパソコンで遊んだりしてくれた。

そのため同級生との遊びが物足りなく感じ始め、年上の友達ともよく遊んでいた。

人間観察が好きで、特に大人の行動をよく観察していた。
2歳の時、私が家の中で忽然と姿を消し、「行方不明になった!」と母と兄が家中を探し回って大騒ぎになったことがあった。
実はこの時テーブルの下に身を隠してテーブルクロスの隙間から一部始終を観察しており、母と兄が家の中の【どこを探さないか】をじっと観察し、絶対に見つからない【逃げ場所】を発見したりしていた。

大きくなるにつれて知恵が回るようになると、人の扱い方が巧妙になっていった。

ある日暗くなるまで友達と遊んで帰宅すると、父親から「帰りが遅い!」と怒られ、その時うっかり口ごたえしたため外に放り出されたことがあった。
その時「暗くて危ないから明るいうちに帰れと叱りながら、なぜまた暗い外に締め出すのか」とどうしても納得できなかった。
そこで「家を追い出されたと言って今から友達の家に泊まりに行けば親は困ってもうこんなことはしないだろう」と思い、暗い夜道を一人で歩き出した。

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玄関の外にいるはずの子供がおらず慌てた母が近所を探し回り、ようやくブスッとした表情一人黙々と歩く私の姿を発見した。
母は機嫌をとりながらあの手この手で説得したが、私は「友達の家に泊まりに行く」と頑として聞く耳を持たずひたすら歩き続けた。

そして母の弱り切った様子を見てようやく説得に応じ、一緒に家に帰った。
それ以来2度と家から放り出されることはなかった。

とても扱いづらい子供だったが、世間的には優等生で通っていた。

毎晩母が読んでくれる絵本と兄の英語教材のおかげで、幼稚園に通う前から文字を一通り覚えていたため、学校のテストで苦労することはなく、学級委員長を務めるなどしていたのでそれなりに成績表が良かった。

とは言えガリ勉タイプではなく、運動も得意で体育の授業では皆の前で見本を演じたり、運動会のリレーではアンカーに選ばれたり、縄跳びでトリッキーな技をマスターしたり、いつも何か難しい課題に挑戦しては動き回っていた。

負けず嫌いは習い事にも発揮され、エレクトーンの試験を飛び級したり、県の絵画コンクールに入賞したりして各方面で評価される度プライドが高くなっていった。

普通の友達では飽き足らず、好奇心旺盛な私は転校生問題児など少し目立っている同級生によく話しかけ、積極的に仲良くなろうとしていた。 

小学3年生の時、問題児のFくんと友達になった。

Fくんの父親は医者で裕福な家庭だったが、学校では教師に噛み付いたり、女子生徒に嫌がらせをしたり、本当は勉強ができるのにわざと白紙で答案を提出したりして先生をいつも困らせていた。

友達になろうと思ったきっかけは、ある日Fくんが女子生徒の腕などを舐めるというので先生に怒られていた時、「じゃあ、先生を舐めてみろ!」と言われて笑いながら先生の手の甲をペロッと舐めたのを見て「こんなスゴいヤツがいたのか」と衝撃を受け、それ以来Fくんの独特の世界観に興味を惹かれたからだった。

Fくんは「まさかここまではしないだろう」という柵をあっさりと乗り越え、大人の「本音と建前」の矛盾を突いては動揺する大人を尻目にニヒルに笑う少年だった。

Fくんと刺激に満ちた楽しい日々を送っていたが、ある事件をきっかけに突然幕が閉じられた。

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ある日Fくんはプレゼントがあると言って自分の部屋に案内し、「どれがいい?」と1万円札5千円札千円札の3枚の紙幣を机の上に並べた。

私は「お金はいらない」と断ったが、「どれか選んで欲しい」と何度も勧めてきた。
Fくんは質問を変えて「じゃあ、どの絵柄が一番好き?」と言ってきたので、新渡戸稲造のゴーグルのようなメガネが急に面白くなってきて5千円札を選んだ。

Fくんはこのことを日記に書いたため、それを読んだ担任の先生は翌日私と母を学校に呼び出して注意をした。
私は生まれて初めて学校の呼び出しを受けたことがとてもショックで、世の中で一番悪いことをしたような罪悪感と恥ずかしさで堪らなかった。
その日はずっしりと重い十字架を背負ったような気分で家路についた。

それ以来私はFくんと距離を置くようになった。 

今思えば、Fくんは理解者ができたことが嬉しくて、私にお礼をしたかったのだと思う。
二人きりの時Fくんは自分の生い立ちなどをよく話してくれた。

彼の話を聞くうちに、問題はFくん自身にあるのではなく、問題を起こさせる環境にあるように感じた。

Fくんを通して人には外側ではわからないそれぞれの事情を抱えていることを知り、今まで気にもとめなかった普通の人々が、それぞれのストーリーを持った主人公として色彩を帯びて浮かび上がってくるように感じられた。

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しかし順風満帆に見えた少年時代は、突然の転校によって終わりを告げた。

小学4年生に上がる時に別の校区の家に引っ越しをすることになったのだ。

その瞬間、今まで築き上げてきた実績と友達はリセットされ、暗黒時代に突入した。

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